松平容保の時代、会津戦争の悲劇の元となったと云われる会津家訓十五カ条

会津家訓十五カ条

会津藩祖保科正之は晩年58歳の時に十五カ条からなる会津家訓十五カ条が作成されました。 会津藩主保科家及び会津藩士にの精神的規範です。
第一条こそ会津藩の立場、あり方を明確に示したもので、ここでいう大君とは徳川家を指し、 忠勤、忠義を尽くせと書いてあります。普通家訓とは家の掟、自分の家を守れ、殿さま会津藩主の忠義を尽くせと云うのが常識です。
ところが、会津家訓では自分の家、殿さまはさておき、本家の徳川家に忠勤を尽くせというものでしかも、 他の藩を見て判断するなもし徳川家に逆らう藩主がでてきたらそれは私の子孫では無い。 家臣はそれに従ってはならない。
正之は徳川家の直系であるし異母兄弟ながら家光に可愛がられ、将来も会津藩が徳川家を支えていかなければ ならないと、いう気持ちから作られたと云われています。
この会津藩家訓は正之以降の藩主ばかりでなく家老たちも主君の前に呼ばれて血判を押す事が求めらていたとの事。
連綿と受け告げられ松平容保の時代では戊辰戦争の悲劇の元となったものと云われています。
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会津家訓(かきん)十五カ条

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
(将軍家にはひたむきに忠義を尽くせ。たとえ自分の子孫でも徳川将軍に逆意を抱く藩主が現れたら従わなくともよい)
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず。
(そのためには武備を整え、士を選び、組織を整えなさい)
一、兄をうやまい、弟を愛すべし。
(主君に対する「忠」親に対する「孝」兄弟に対する「敬」儒学の基本的な教え)
一、婦人女子の言 一切聞くべからず。
(正之の側室が生んだ子を妬んだ正室お万の方が毒殺、結果実の娘媛姫死亡の経験から、この一条が加えられたとのこと)
一、主をおもんじ、法を畏(おそ)るべし。
(主を重んじ、法をうやまいなさい)
一、家中は風儀をはげむべし。
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず。
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず。
一、士をえらぶには便辟便侫べんべきべんねい(こびへつらって人の機嫌をとるもの口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず。
一、賞罰は、家老のほかこれに参加すべからず、もし位を出ずる者あらばこれを厳格にすべし。
一、近侍の、もの、をして人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。評議は私意をはさみ人言を拒(ふさ)ぐべらず。思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし。はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず。
一、法を犯すものは、ゆるすべからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり、歳餓(う)えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
(社倉米は民を救うため以外に使用してはいけない)
一、若し志をうしない遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめばすなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
(志を失う事があった場合には藩主として面目がたたない辞職願を出して謹慎しなさい)
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日
会津中将 印
家老中
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