会津藩の藩主、松平容保を紹介しています

松平容保

1836年 松平容保は高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれます。
母は側室の古森氏で1846年に叔父の会津藩第8代藩主容敬の養子となり嘉永5年(1852年)に家督会津藩主9代目を継ぎます。
幕末、徳川幕府より長州藩などの尊王攘夷派によって乱れた京都を守るため京都守護職を要請されます。
藩主容保や家老の西郷頼母ら家臣団は拒否、松平春嶽が会津藩祖 保科正之が記した『会津家訓十五箇条』 の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出し、押し切られる形で1862年に京都守護職に就任します。
これより会津藩並びに容保公は歴史の大きな渦の中に翻弄されることと成ります。
京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵千人を率いて上洛、孝明天皇や14代将軍徳川家茂の警護、 京都市内の治安維持を配下の新選組などを使い粉骨砕身尽力します。 慶応3年(1867年)に15代将軍 徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅します。
翌年、鳥羽・伏見の戦いが勃発、大坂へ退いていた徳川慶喜、松平容保が戦線から離脱し幕府軍艦で江戸へ下ります。 徳川慶喜は新政府に対して恭順を示し江戸城を無血開城します。
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他方松平容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎しますが佐幕派の重鎮と見られて敵視され、 更には逆賊の汚名を着せられます。
会津戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦、その惨劇は白虎隊、老若男女等の決死の戦でご承知の通りですが、 会津若松城では一カ月間の篭城、徹底抗戦となりました。
藩主容保も籠城も慶応4年(1868年)9月新政府軍の降伏勧告に応じ会津戦争が終わりをつげます。
この人のためだったら死ねる。松平容保とはそう思わせる人だったようです。 容保の人を悪くいう人はいません。そこに悲劇が更に大きくなった理由のようです。
戦後、容保は蟄居、その後日光東照宮宮司、明治26年(1893年)没、波乱の72歳の生涯でした。
会津戦争から61年目、1929年秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子 (容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われました。
朝敵といわれた会津、汚名返上に会津では歓喜に沸いたと記されています。
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