戊辰戦争のなかの会津戦争を紹介しています

会津戦争

会津戦争は慶応4年1868年戊辰戦争の局面の一つ、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍と、 会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との戦いです。
現在の福島県会津地方が会津若松が主戦場となりました。
1862年会津藩主・松平容保は京都守護職に就任、新撰組などと尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、 禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行いました。
その後、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去しました。
1868年3月江戸城が無血開城され徳川慶喜が水戸で謹慎すると、 薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は佐幕派の重鎮として敵視されていた会津藩に向けられ慶応4年1868年会津藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍の戦いとなります。
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この会津戦争は戊辰戦争の中でも特に悽惨な戦いでした。
その中で悲劇は少年隊士、白虎隊の自刃や自ら戦場へと赴くことを志願し、薙刀を振るった娘子軍、 足手まといになること拒み自決した妻、娘、子供などおおよそ、戦争には無縁の人たちが自ら命を落とした事でした。
更には鶴ヶ城に籠って徹底抗戦した老若男女など、共に熾烈を極めた戦いでした。 1868年9月会津藩は一ケ月の籠城の末に鶴ヶ城を明け渡し終息します。
その後の薩長軍がした暴行・略奪、降伏後の戦後処理、会津藩士戦死者の遺体を放置して暫く埋葬を許さない行為などは、後世に遺恨を残すことと成ります。。。
しかし反面、薩長のこの行為は「池田屋事件」に代表されたような、積年の恨みからでしょう。 悲しいかな、長い歴史の中で報復そしてリベンジの応酬なのでしょうネ。
1986年(S61) 長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。
2011年(H23) 3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問した。
2012年(H24) 11月26日、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った。

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