会津若松市の鶴ヶ城など観光地を紹介。会津若松観光マップ、鶴ヶ城・飯盛山の観光マップも掲載
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鶴ヶ城の駐車場へ向かうお濠の道路、開け放たれた武徳殿、稽古中なのでしょう、武具を纏った少年剣士の姿が 車窓から見えました。遠くから見えたその一瞬の姿は、会津藩少年隊士の毅然とした姿そのものでした。
鶴ヶ城は会津若松市の旧市街地の南端に位置し五層の天守閣のある平山城です。
1868年(慶応4年)の会津戦争では
鶴ヶ城
は1ケ月の間持ちこたえましたが、 傷つき荒れ果てた城はその後、明治政府により取り壊されました。 紆余曲折の後、昭和40年に再建、平成23年、幕末当時の赤瓦に甦りました。
現在一層から四層まで戊辰戦争や歴代藩主、会津城下町の風物の紹介など資料展示しています。 最上階の天守閣は意外に狭い展望室でしたが、四方を幕府軍に囲まれた姿を想像しながら
会津
の町並みを眺めました。 吹きぬける会津の風は冷たく、北東に飯盛山も小さく見えました。
君主松平容保公は鶴ヶ城門内の東側、石垣を背にした黒鉄門に籠城していたとか、 保科正之以来連綿として徳川家に尽そうとしてきた会津藩、梯子を外され 朝敵となった彼はどのような思いで砲弾の音を聞いていたのだろうか、、、
ふと、そんなことを思いながら暗い鉛色の空を見上げました。
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飯盛山の中腹にある白虎隊自刃の地と白虎隊十九士の墓に向かいました。
登りきった処、左側にお花と線香が供えられていた十九士の墓があります。 小さな広場の回りにドイツ碑、ローマ碑、容保歌碑、後に亡くなった飯沼隊士の墓があります。
時代の波間に翻弄された若者、忠義のため、一途な志、
会津戦争の最大の悲劇と言われた白虎隊自刃の地。
少年たちは、どんな思いでこの飯盛山を登って来たのかと思うと熱いものが込み上げて来ました。。。。 (他方、この聖地に自ら汗も掻かず、電動スロープで上がって来た事を心の中で恥じました)
松平家の墓所は二代目から九代目の松平容保公までのお墓が院内山の山懐にあります。
うっそうとした木々に囲まれた神式の墓は、亀形石を台座とした石碑、 灯篭が対に並び、八角形石組の鎮石が置かれている墓と拝殿があります。
パンフレットでお馴染の亀の形に似た霊獣の背中に巨大な墓碑が立ち並んでいましたが、 入口から石段を登って15分ほど、正直この亀扶(きふ)を見たときには有りえない姿に言葉がでませんでした。
それを見ただけでも大名墓所の荘厳な雰囲気に触れることができて それはそれで大満足でしたが、10月の肌寒い暗い、暗い小雨の午後、近藤勇のお墓と同じく誰も会うこと無く、 一人での墓地めぐりは正直気味悪く、さらにはクマ出没危険の立て看を見ては早々に山を転げるように下りました。
「忠義の戦い」「武士の散り際」「会津の士風」「美学」・・・ の言葉が史跡を回るたびに、浮かびました。
まさに私にとっては襟を正すような会津史跡めぐりでした。
勝てば官軍、負ければ賊軍、負け組、勝ち組と、、、、結果がすべての風潮。 (いやな言葉です)
結果より、そこまでの行いが正しかったか。筋は通っていたか。
いなかったのか、、、
会津戦争は会津人のそんな在り方を問う戦いだったのではないか?
帰路、武徳殿の凛とした姿の"会津っぽ"が脳裏を過りました。
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