会津戦争最大の悲劇白虎隊を紹介しています

白虎隊

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊が白虎隊です。
中には志願して15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていましたが本来は予備兵力でした。
戦況が進むにつれ若年兵の投入が焼け石に水でしたが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、 これを支援する形で戦場へと駆り出されました。悲劇の始まりです。
戦況は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされます。
このうち白虎隊一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たりましたが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い) で決定的打撃を受けて潰走し、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びます。
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このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、 一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡しました。
一般に白虎隊は若松城周辺の火災、もしくは城周辺から上がる湯気を目にし落城したと誤認して悲観したとされていますが、 飯沼が生前に伝え残した史料によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、 敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き 恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行したと述べています。
自刃した19名は飯盛山の此の地に埋葬されました。後に飯沼貞吉のお墓もこの処に葬られました。 白虎隊といえば自刃した20名が有名です。しかし実際は16歳~17歳の武家の少年兵315名と引率将校28名を合わせた343名を指します。 後に、290名が生き残ったとの事です。
会津最大の悲劇と云われる白虎隊の自刃、
多くの飯盛山を訪れた観光客は、白虎隊の墓前に頭を垂れるのも尊い、自己犠牲の行為に感動を覚えるからなのでしょう。
私もその一人です。参拝した時にも、お墓の辺りに線香の煙が立ち上り、沢山のお花が供えられていました。
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